34.エレキの神様 寺内タケシVOL:1



エレキの神様 寺内タケシVOL:1



エレキの神様寺内タケシの第1弾 誕生から大学入学まで

世界で初めてエレキ・ギターを発明したのはテリーこと世界の寺内タケシで且つ、世界中のエレキ・ギターを弾くミュージシャンに崇められてる神様です
テリー・ピック

本サイトがスタートして5ヶ月が過ぎて、そろそろメーンのミュージシャン三人(加山雄三、寺内タケシ、三根信宏=何れもギタリスト)を少しずつ紹介していきたいと思います。今週は今年で67歳の寺内タケシの特集をしていきますのでお付き合いの程お願いします。(文中敬称略)

寺内タケシ(本名:寺内 武)は、'38年1月17日に茨城県土浦市で、父・寺内龍太郎(土浦市市会議員・市会議長を務めた政治家、電気店・製材所・建設会社・映画館等を経営する実業家を兼任)、母・初茂(鶴岡流小唄と草紙庵流三味線の家元)の厳格な家庭の次男として誕生しました。

幼い頃から三味線をおもちゃにしその音色を子守唄として寺内は育ちました。5才のときに母親の三味線の弟子になり三味線をマスターします。。そんな時、学徒動員で出征した兄が大事にしていたクラッシック・ギターに鋼鉄製弦を張り、又しても母親の弟子になり血の滲むような努力(指の皮は破れ、血はにじみ、やがて肉は裂け、血が流れ出して弦を押さえる事ができなくなって、痛くて寺内が泣き出した時に師匠の母は、塩壺の中に寺内の手を突っ込んだそうです=飛び上がるほど痛かったでしょうね)をしました。
後に、寺内は「母がいなかったら、僕はギター弾きになっていなかった。でも、母がいたからギター弾きになった」日本一の師匠を超えたのかと聴かれたらこの年になっても自信をもって「母を超えた」などとはとうてい云えないと語っています。

やがて、母親の三味線と寺内のギターとセッションを行いますが、母親の見事なバチさばきと早弾きに寺内は太刀打ちできず、ギターの音量で勝負しなければ勝てないと考えるようになり、ボディーに穴をあけカーボン・マイクをギター内部に仕込んだのです。しかし、この時はギターとカーボン・マイクの相性が悪く失敗します。試行錯誤を重ね、最終的に電話機の受話器に使用されていたコイルを使って、世界で初めての電気ギターを作ってしまいました。

最初の電気ギターは作成から1年半でダメになり、自分で設計し父親が経営している工場でありとあらゆる木材でギターのボディーとネックを作り、父親経営の電気店でマイクを取り付け、自家製のエレキ・ギターを数十本作ってしまうのです。(最終的にボディーはモミジ材が最適だったと語っています)

雑談です。朝日新聞が世界で創めてエレキ・ギターをつくった人物として寺内の名をあげ更に、ビートルズの自伝の中には「エレキ・ギターの発明者は、日本のテリー・テラウチ」と紹介されています。当時、小学生の寺内には特許という言葉も、意味も、申請するなどということも知らなかったのです。
そうそう、忘れてならないのが寺内家の勘当事件です。小学校3年で初めて勘当されました。寺内は合計9回父親から勘当されています。若大将シリーズでも、父親の久太郎が若大将の雄一を勘当するシーンが毎回ありました。

こうして、勉強もそこそこにギター一筋の寺内にも高校進学の時期がきます。そして、息子を進学させるために、父親が土浦で一等地の土地を購入し(直後、土浦市に寄付)高校を設立(茨城県立土浦第三高校)してしまいます。

入学直後寺内は、マンドリン・クラブを設立し特訓に特訓を重ね、秋に開催された、NHKの全国楽器コンテストに出場し全国優勝(寺内が在籍していた3年間連続で全国優勝)をします。

大学受験の際も、古賀政雄(大作曲家・明治大学マンドリン・クラブの創設者)から明治大学に入学するよう誘われますが、寺内は「明治大学に入学できるほど頭脳はよくない」と正直に話すと古賀が「私がなんとかする。音楽の情熱を明大に持ってくるだけでいい」と云われ事実、古賀の取り計らいで明治大学工学部に入学してしまいます。

しかし、勉強をする訳でないのを父親は知って、何と入学後一週間で退学届を出してしまいました。そして、父親のコネで関東学院大学工学部電気科に入学します。因みに入学試験の答案には、ヘノヘノモヘジとダルマの絵だけ書いたそうです。同じ年に、2つの大学に入学した寺内の大学生時代については、明日に続きます。
テリー


エレキの神様寺内タケシの第2弾 大学時代からホンシュウ・カウボーイまで

世界で初めてエレキ・ギターを発明したのはテリーこと世界の寺内タケシで且つ、世界中のエレキ・ギターを弾くミュージシャンに崇められてる神様です
テリー・ピック


関東学院大学に入学するに際して、寺内はと父と「真面目に勉強する」と約束をすることになります。父はこの言葉を今度は信じて、横浜市内に土地を購入して寺内一人の為に一軒家(家財道具から電化製品まで全て)を建ててしまいました。そして、お手伝いさんまで雇い学生が住むには、余りに贅沢で豪華な入学祝の贈り物をしたのです。父親の寺内に寄せる期待の程が解りますね。

しかし、学校に行っても、ミッション系のため朝から礼拝堂で賛美歌を歌わされ、通学した初日で嫌になったそうです。(当時、大学には音楽部もブラバン部もなかった)
父との約束など初めから履行する気の無い寺内は、大学に通う音楽好きなメンバーを募ってウエスタン・バンドの結成を思いつき、構内にカンバンを立て傍らギターを弾いてメンバーを募集しました。集まってきたメンバーの中に、川地民夫(日活映画の俳優)、菊地正夫(歌手の城 卓也)がいました。しかし、何れも楽器演奏は下手だったそうです。
そして、特訓に次ぐ特訓(高校時代のマンドリン部から寺内の特訓の癖がどうやらついたようです。以後、ブルー・ジーンズやバニーズ更に寺内企画のバンドに手厳しい特訓もこの当時から身に付けたようです)どうにか人前で演奏できるようになり横浜のクラブや横須賀の米軍基地でアルバイトで演奏を開始します。

そんな折、礼拝堂でタバコを吸いながら酒盛りをしている処を、牧師の先生に見つかり停学処分になりました。停学になった寺内は、横浜山下公園の超一流の「ブルー・スカイ」というクラブでドラム担当者としてアルバイトを開始(メガネをかけ、付け髭の変装をしてドラムを叩いていたそうです)します。しかし、父親が何処からか聞きつけて、このクラブにやってきて見つかって父から勘当の宣言を受けました。
寺内はバレて勘当されたと自棄になり、一週間近く友人の処を転々として自分の家に戻りますが、その家が無くなっていたのです。そこにあるべき家が影も形も無くなっていました。しかもギターもアンプも学校の教科書も衣類もありとあらゆる全ての日常生活品全てが。
この当時を寺内はこう語っています。「家があった場所で唖然としていた。しまいには笑うしかなかった。そして、親父!やるじゃないか。見事な勘当だったゼ!」と。大学も停学で住む家も失い、寺内はJR桜木町の駅を住処(駅のベンチ)として生活(ホームレスの先駆けですね)をするようになりました。横須賀のアルバイトは継続して行なっていたある時、知り合った米軍将校が持っていたフェンダー・テレキャスター(一週間後に本土に帰国。$百で売り渡すと言われ)を買求めるため、お金を稼ぐ為にアルバイトに精をだします。

朝4時から港湾日雇労働者で、貨物船に山積みの荷物をモッコを担いで小船に降ろす作業をした後、桜木町駅に戻り拾い集めた雑誌を販売する仕事(同じ駅を住処にしていた同業者を雇い入れ、各人に作業を分担させ手広く事業を行っていたそうです。その同業者には給料まで払って)を行ないました。それが終わると金沢八景にある大学に行くため2時間(ギターを買求めるため無駄な出費を抑えて)かけて歩きました。授業が終わると横須賀の米軍キャンプ(ここで格安で手に入れた外国のタバコや洋酒も学生達に販売していた)で演奏のアルバイト。このハードな生活を2ケ月間休まず続けました。そして、その苦労が報い欲しかった(初めて手に入れたテレキャスター)フェンダーのギターを手に入れたのです。

そんな中バンド・メンバーの川地から横須賀でプロのバンドのオーディションが開催されると話が入り、会場に向かいました。会場にはでかい外国人(応募した中で日本人は寺内ただ一人)ばりでした。
このバンドこそ、ウエスタン・ハンドのホンシュウ・カウボーイ(メンバーは全てアメリカ人)だったのです。このオーディションではアメリカ人は寺内を初めから相手にしていなかったそうですが、いざギターで演奏を始めるやいなや審査員の表情が一転し、次から次えとリクエスされ最後には審査員全員から「ブラボー」の声と共に一斉に拍手が沸き起こり見事合格しました。
学習です。ホンシュウ・カウボーイのホンシュウは漢字では本州と書くそうです。嘘のような本当の話です。ホンシュウ・カウボーイのメンバーとなり、寺内が最新のレコードから耳から聞き取った音をパートに書き上げ、ホンシュウ・カウボーイのメンバーに手取り足取り演奏指導を行なうようになります。
そして、横須賀のEMクラブでホンシュウ・カウボーイのリーダーから「ヘイ、プレイ、テリー、ボーイ!」と声がかかり寺内がギター・ソロを行なうようになるのです。と、次第に観客同志が噂をするようになってきました。「英語の出来ない謎の外国人ギタリスト、テリーボーイの演奏を聴くとぶっ飛ぶゾ!」と。テリー・ボーイの名は瞬く間に知れ渡る事になります。

そして、ミッキーカーチス(ロカビリー・バンドのクレージーウエスト)と出会い音楽談義に花を咲かせ意気投合したのです。
その出会を、寺内は更に飛躍するためにホンシュウ・カウボーイを脱退しクレージーウエストに参加します。
このクレージーウエストにはベースの碇矢長一(ドリフターズのいかりや長介=日本で最初にチョッパー弾きしたベーシスト)が後に参加してきます。これ以降は明日に続きます。

いかりや長介さんは、'04年3月20日午後3時30分、原発不明がん頸部リンパ節転移のため、港区の慈恵医大病院で死去しました。享年72歳でした。間もなく一周忌になります。
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エレキの神様寺内タケシの第3弾 クレージーウエストからマウンテン・プレイボーイズまで

世界で初めてエレキ・ギターを発明したのはテリーこと世界の寺内タケシで、世界中のエレキ・ギターを弾くミュージシャンに崇められてる神様です
テリー・ピック


本文に入る前にここで、少し学習です。当時の日本のロカビリー・バンドは、ミッキーカーチスのクレージーウエスト、平尾昌晃のオールスター・ワゴン、山下敬二郎のウエスタン・キャラバンの3グループが一世を風靡していて、後に、この3人は、ロカビリー3人男と呼ばれるようになります。

ミッキーカーチスからの誘いで寺内は、ロカビリー・バンドのクレージーウエストに参加しますが、この人気バンドは解散寸前でした。そして、寺内が加入した後にメンバー全員が脱退してしまいます。バンドは事実上休止、残された寺内は落ち込まず精力的にメンバー集めを行い新メンバー6人でクレージーウエストを復活させます。そして、札幌のジャズ喫茶から1ヶ月の出演が決まった矢先に、ベーシストの岩倉 忠が病気で入院してしまいました。

急遽、寺内はベーシストを探す作業に入り、一人の男が候補に上がったのが札幌巡業の前日でした。触れ込みでは「若くて、長身、しかもハンサム」と云う話だったそうです。
実際に会ってみると「ルックスのいい男の筈がワニみたいな顔だし、年も若くなさそうだった」が翌日には札幌に行かなければならないので参加してもらうことになります。
この男こそ、いかりや長一こと、後の、いかりや長介その人なのです。しかし、この一ヵ月後に、いかりや長一とは別れました。

この巡業中のホテルの部屋での話があります。いかりや長一は以前ハワイアン・バンドで演奏していて、この後はロカビリーのバンドで演奏をしたようなので、寺内はそんな、いかりや長一に「あんた、インディアンみたいな顔をしているんだから、ロカビリーでガンガンのスタイルじゃないよ」、「ウエスタンで、インディアンがベースを弾いてたらウケるよ」と洗脳をしてしまったそうです。

そして、いかりや長一と劇的な再開をします。米軍上瀬谷キャンプで。ここにクレージーウエストが出演した時に、マウンテン・プレイボーイズで軽快にベースを弾いていたのが、いかりや長一でした。(寺内から洗脳されロカビリーからウエスタンのバンドに参加)
ここで、いかりや長一からリーダーのジミー時田を紹介され、寺内は意気投合しその場でクレージーウエストを脱退し、マウンテン・プレイボーイズに参加しました。
マウンテン・プレイボーイズのメンバーは、ジミー時田('00年3月10日に肺炎により杉並区の荻窪病院で死去、享年63歳でした)、いかりや長一、ジャイアント吉田、藤井光雄、宮城久弥と寺内の6人編成バンド。

注釈:ジミー時田(本名:時田圭介)さんは、カントリー歌手で、青山学院高等部時代からプロのバンド活動を始めました。'57年青学英米文学科3年在学中に、マウンテンプレイボーイズを結成し、カントリー・アンド・ウエスタンの全盛期をリードしてきました。'67年、同バンド解散。レパートリーは5000曲あまり。
この、ジミーさんの死去に伴って寺内が次のようにメッセージを贈っています。
「私にとっては音楽のみならずいろいろと教わった先達であって、もっとも大事な人間の1人でありました。人柄は温厚篤実、紳士であり多くのミュージシャンからも慕われる存在でもありました。芸風はカントリー・アンド・ウエスタンの王道をいく本格的なものでした。天才的な歌唱力は他の追随を許さないもので、2度と彼のような歌手は今後現れないのではないかと思います」と。

雑談です。寺内が抜けたクレージーウエストはその後、解散状態の中でメンバーを集め仲本工事、荒井 注、加藤 茶、高木ブーが参加、この後マウンテン・プレイボーイズを脱退した、いかりや長一が参加して、ビートルズの武道館のオープニング・アクトを務めたザ・ドリフターズになっていくのです。

寺内は、マウンテン・プレイボーイズで充実した日々を送っていた矢先に、リーダーのジミー時田から突然「寺内、お前はこのバンドには不必要だ。今日限りやめて貰う」と云われてしまいます。この時寺内は先輩のジミー時田にかなり罵声を浴びせ喧嘩腰で挑んでいったそうです。メンバーのいかりや長一、ジャイアント吉田などに慰め(この時はみんなニヤニヤしていて、寺内はコノヤローと思ったそうです)られても茫然自失状態だった寺内に、マウンテン・プレイボーイズのマネージャーが歩み寄り寺内にこう囁いたのです。

「寺内さん、マウンテン・プレイボーイズをやめて、新しいバンドをつくるそうですね。また、一緒にやりましょうよ。バンドは流行のロカビリーがいいですね」と。
寝耳に水の寺内は顔に?を浮かべていたらマネージャーが更に「寺内さんがリーダーになって、新しいバンドをつくるんでしょ?だから、一緒にロカビリーをやりましょう」

ここで、寺内は筋書きが読めました。この時の模様をこう寺内は言っています。「僕に新しいバンドをつくらせる為に、ジミーは理由もない理由で僕をクビにしたのだ。他のメンバーもみんな筋書きを知っていて芝居をしていた」と。

この寺内追い出し作戦は、マウンテン・プレイボーイズが所属していた東京ハワイアンズが、最新の音楽(ロカビリー)を取り入れた新たなバンド(ボーカルには、ほり まさゆきが既に決定していました)をつくる為に寺内に白羽の矢を立て実行された計画でした。
そして、ジミーが取った作戦は、あれこれ策を弄さずに、ストレートに止めさせて気持ちよく寺内にバントを作らせようと。

そして、'62年の夏に寺内を中心に結成されたのが、ブルージーンズなのです。このブルージーンズ以降は明日に続きます。
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エレキの神様 寺内タケシVOL:2





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